イスラエル側の好意で、ある時、学内関係者に公開されたことがありました。 洞窟の入口付近で押しつぶされてペチャンコになった頭蓋骨のあごに植っていた歯は、現代人のものとほとんど違いが感じられませんでした。
注目すべきことは、上あごの左側の第三大臼歯(親知らず)が極端に小さく退化していたことでした。 これもかなり以前、科学博物館に展示された数十万年前の周口店から出土した北京原人顎中切歯は、茶褐色で頑丈そうな形でしたが、現代人よりわずかに大きいかなという程度でこのことは、歯のサイズの退化が遅れている、言いかえれば、歯はなかなか退化しない、と言うことを強調した格好になりましたが、歯が次第にダウン・サイジングし始めたことは確かです。
化石の歯のコピーを見せられた時の感動を、私はいまでもおぼえております。 その数年前、T大のS教授(当時)らがT大学西アジア洪積世人類遺跡調査団を率いてイスラエルのアムッド洞窟で発掘作業に従事されました。
1961年6月28日、ネアンデルタール人類と考えられるアムッド人の全身骨が、予想通りその洞窟で発見されたのでした。 もっとも、どの歯も一様に退化し始めるわけではありません。
退化を始めた歯と、まだ始めていない歯とがあります。 歯が退化を始めた歯は、その傾向の強い順で並べると次のようになります。
底上あごでは、第三大臼歯・側切歯・第二小臼歯です。 下あごでは、やはり第三大臼歯・中切歯それに第二小臼歯です。
上下のあごで違うのは、前歯です。 上あごでは側切歯ですが下あごでは中切歯だという点です。
もっとも、例外的に下あごでも側切歯や第一小臼歯が退化することもあります。 とこうした例外は別として、退化してく歯はどれをとっても、同じ歯種群の一番後ろの歯から退化していることです。

あごが小さくなって、歯並びが悪くなるのは困ったことですが、一方これが脳を発達させるのは第二小臼歯、大臼歯群では第三大臼歯です。 退化歯の「末端説」です(オランダのB教授、アメリカのD教授、日本のH教授らが支持した考えです。
もっともこれに対して、現在のヒトの第一小臼歯・第二小臼歯は、本来の第三・第四小臼歯で、小臼歯については前方から退化が進んでいるという考えもあります)。 すこし専門的過ぎたかもしれませんが、問題なのは歯が退化して縮小してゆく早さと、あごのサイズの退化の早さを比べると、いくらかあごの方が早いということです。
この微妙な違いが、現代人の悪い歯並びとして現れていると考えられます。 第三大臼歯がヒトのあごから消えつつあるとの説明に反対する学者は少ないと思います。
特に下あごの場合、この第三大臼歯は生えてくるスペースがなく、水平に倒れたりしてトラブルをおこします。 これは水平埋伏智歯といって、抜歯する以外には治療は殆ど無理です。
矯正治療に関係なく抜歯しなければなりません。 水平埋伏の第三大臼歯がそのまま残されてしまうと、折角矯正治療できれいな歯並びになっても、この歯の萌出力のためにすこしずつ前の方に押されて、結局一番力を受ける前歯が凸凹に後一戻りしてしまいます。

ヒトの先祖と同じ系統にあると考えられているチンパンジーやゴリラなどと比較すると、ヒトの脳のサイズは、あごの大きさに比較してかなり大きいことになります。 逆にいえば、あごは小さくなった分だけ脳が大きくなったのです。
たとえば成獣の雄ゴリラの頭蓋の頭頂部には、中央で盛り上がったような「矢状稜」が次第に成長し、それが残っています。 硬いものを噛み砕くための、強大な岨噛筋のひとつがここに付着しているのです。
これはどのゴリラにもあるわけでなく、成獣のオスで、よく噛むために岨噛筋群のうち、特にこの側頭筋(位置が変わっているので、この名前はおかしいのですが)が発達したゴリラにみられるということが注目される点です。 前にも述べたように、ヒトの場合はその筋肉も退化し、その付着する位置もこの頭頂部から側頭部へと下がり、名前まで「側頭筋」というようになったと考えられます。
ヒトの場合は、すでにそんなに強大な筋力を使わずに、軟らかいものを食べるようになっているからです。 頭についていた強大な筋肉が使われなくなると、どういうことがおこるでしょうか。
いままでしめつけられた頭はその圧力から解放され、おかげで脳はその大きさを変えることができたのです。 ヒトは硬い物を食べなくなったかわりに、ほかの動物よりも脳が急速に大きくなることがこれで可能になったと考えられます。
つまり、あごの使い方と頭の使い方とは、反比例するようになるのです。 原人より、新人の方が、頭が大きいのはそのためです。
さらに時代が過ぎて、これから何十万年後のヒトの顔はどうなってゆくのでしょうか。 想像図の火星人の顔のように、頭ばっかりやたらに大きいあごなし型の顔になるのでしょうか。
その時、歯や歯並びはどうなっているのでしょうか。 ヒトの乳歯は二十本、永久歯は三十二本だといいました。
ところが永久歯の数がわれわれヒトでは徐々にですが、減ってきているのです。 生まれつき歯がないことを、先天欠如(歯)といいます。
第三大臼歯や側切歯、第二小臼歯にその兆しがみえることは前のところで書きました。 実は、退化してゆく歯は突然消えてしまうわけではありません。
いまあげた歯のどれもが、まずその形を小さくしている。 見逃されやすいことですが、これは退化の前兆です。

形が次第に小さくなって、究極的には姿を消して、欠如してしまうのだと考えれば理解できます。 歯の形が小さい場合、これを「倭小歯」といいます。
たとえば、上あごの側切歯は普通で横幅が七、八ミリ程度ですが、倭小化の傾向は段階的に小さい形になり、最後はこめ粒(米粒歯)以下になります。 私が観察した一番小さい上あごの側切歯は横幅が一・二ミリでした。
極端な場合、こんなに小さい永久歯は、生えてくる途中で隣の歯(普通は犬歯)の萌出力に押されて歯の根っこの部分が溶け(吸収し)て、結局は抜け落ちる運命にあるようです。 極小上顎側切歯に萌出してきた犬歯(直上)によって乳歯のように吸収・脱落してしまうのでわれわれの目に触れることは殆どない。
ところで、この「倭小歯の欠如」は同じ家系でしばしば重複して発見されます。 つまり、歯を小さく(倭小)する遺伝子と欠如させる遺伝子は、たぶん同じものと考えられます。
遺伝子の表現力の違いによって、倭小歯になったり欠如したりすると考えるのが自然です。 こうして永久歯の三十二本は、いまや上下左右の第三大臼歯(親知らず)が消失するにしたがって、次第に二十八本に近づき、何万年かの後には二十二本から二十本ぐらいになってしまうでしょう。

前出の私の二人の恩師、故H教授(T大学。解剖学)や、A教授(S大学・人類学)はこうした歯の研究の第一人者でした。
歯がどんな過程で小さくなるかには、いろいろと面白い話がいっぱいありますが、残念ながら省かせていただきます。 乳歯が生えてくる順番は前から後ろに順序通りです。
ところが、永久歯の場合は素直に前から順番に、とはいかないのが不思議なことです。 この永久歯の生える順番は、すこし複雑なので全部を説明できませんが、大事なのは犬歯と第二大臼歯の生える順番です。

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